銀閣寺(ぎんかくじ)
Ginkakuji
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。
【位置】
銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)といいます。京都の東に連なる山々は東山(ヒガシヤマ)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきました。なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の8月16日の夜に点火される送り火で知られています。銀閣寺はこの大文字山の麓にあります。門前には哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として人々の散策路になっています。
このあたりは古くから歴史の中に現れたところで、白川の清流が流れており、流域には早くから人が住みつき、縄文遺跡や、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されています。またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など古くから寺院が営まれてきました。平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、菩提を供養する寺院が多くありました。平安時代の中期に浄土寺が創建され、この浄土寺跡に東山殿が造営され後に慈照寺となるのです。
【東山殿以前】
浄土寺は天台の寺院で平安時代円珍が住して浄土寺といい、寛仁の頃に天台座主第25世明求(醍醐天皇の孫)が堂宇を再興して住し、浄土寺座主と称したといわれます。
平安時代の終わりごろから寺院の門閥支配が確立して、延暦寺も天台座主は特定の末寺によって独占的に就任するようになります。この特定の分院を門跡(一門の法跡)と呼んでいます。
延暦寺の門跡寺院、金剛寿院の主、天台座主第73世円基が承久年中(1219-1222)当時へ住することになり、浄土寺は金剛寿院の配下となります。門主は浄土寺に常住するようになり、浄土寺門跡の住房が営まれました。
時代は下って足利時代に至り、第6代将軍義教の第3子義躬が浄土寺において出家し、義尋と号して門主となります。しかし後に兄義政に呼び戻され、義視と称して将軍の後継者となりました。やがてこれがもとで応仁の乱が起こり、浄土寺は跡形もなく焼失してしまうのです。その跡地に兄義政によって東山山荘が営まれることになるのです。
【銀閣・建物構造】
1層(初層)
「心空殿(しんくうでん)」といわれる住宅風様式
上層
「潮音閣(ちょうおんかく)」といわれる禅宗様(唐様)の仏堂
屋根
こけら葺の屋根には金銅の鳳凰が羽ばたいています
【文化財】
・国宝
慈照寺銀閣 – 解説は既出。
慈照寺東求堂(附 棟札) – 解説は既出。
・重要文化財
絹本著色春屋妙葩像
・特別史跡・特別名勝
慈照寺(銀閣寺)庭園
・史跡(国指定)
慈照寺(銀閣寺)旧境内 – 特別史跡・特別名勝の「慈照寺(銀閣寺)庭園」とは別件で史跡に指定されている。指定範囲は「慈照寺(銀閣寺)庭園」より広く、北側の浄土院の境内も指定対象に含まれている。
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観光スポット詳細
- 電話番号
- 075-771-5725
- 住所
- 〒606-8402 京都市左京区銀閣寺町2
- 営業時間
- 夏期( 3月~11月)8:30~17:00
冬期(12月~ 2月)9:00~16:30
- お休み
- 年中無休
- 料金
- 大人・高校生:500円
小・中学生:300円
※団体扱いはありません
※特別拝観時は料金が異なることもありますのでご注意ください。
- 最寄駅
- 京阪「出町柳駅」
地下鉄「蹴上駅」
- 交通アクセス
- 京阪 出町柳駅
※最寄り駅下車徒歩約20分
地下鉄 蹴上駅
※最寄り駅下車徒歩約20分