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松本城(まつもとじょう)

Matsumoto Castle

中部 文化と歴史 長野県

松本城(まつもとじょう)

松本城は戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりで、現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城です。黒と白のコントラストがアルプスの山々に映えて見事な景観です。

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にあった日本の城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

【歴史】
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。

戦国時代の天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が開始され、天文19年(1550年)7月15日には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本盆地を支配下に起き、その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信に至る信濃一帯を領国化した。

武田氏滅亡後の1582年(天正10年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては当初木曾義昌が支配していたが、同年6月には越後上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還する。その後、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。

その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。

1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

【構造】
典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。

【松本城公園】
松本城周辺に整備された、入場無料の公園(天守閣と本丸庭園は有料)。四季を通じて各種イベントが開催されている。第○回と冠されたイベントを挙げる。「」書きのイベント名には枕詞「国宝松本城」が付く。

・太鼓門特別公開(春・夏・秋の3回)
 「夜桜会」- 開花宣言の3日後より8日間
 「太鼓まつり」
 「薪能」
 「月見の宴」
・信州・松本そば祭り
 「合同茶会」
・お城まつり
 「新成人記念写真撮影会」
 「氷彫フェスティバル」
 「消防総合訓練」
・ クラフトビールフェスティバル in 松本

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された
ウィキペディアの項目「松本城」を素材として二次利用しています。

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観光スポット詳細

電話番号
0263-32-2902
住所
〒390-0873 長野県松本市丸の内4-1
営業時間
8時30分~17時00分
お休み
年末年始(12月29日から1月3日)を除き無休
料金
小・中学生:300円
大人:610円
Web
http://www.matsumoto-castle.jp/
最寄駅
・ JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線「松本駅」
・ JR大糸線「北松本駅」
交通アクセス
・ JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線 松本駅(東口(お城口))から約20分。
・ JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から約7分。

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